今思えば、あの時すでに掴まっていたのだろうと、思う。

  ゆっくりと絡め捕られ、じわり、じわりと距離を縮め、

  慎重に慎重に獲物を狙う、蜘蛛の巣にひっかかったように。

  獲物は、自らがかかった罠に気づいた時には、すでにもう手遅れだったのだ。


  雨露を弾き光る細い銀糸の罠のように、あの煌きが自分を離さないのだ。



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  こつ。こつ。こつ。


  初春の早朝の日差しが柔らかく差し込む人気のない廊下に、硬い靴音が良く響く。


  こつ。こつ。こつ。


  時計の針は、まだ授業前のHRが始まるまで、未だ1時間以上ある事を示している。
  普通の生徒達はまだ登校しているはずもなく、
  部活動の朝錬や生徒会など、一部の者達がそれぞれの部室や教室でまばらに活動を行っているだけだった。


  こつ。こ、つ。こ…つ。


  一定のリズムを刻んでいた足音が、迷いが生じたかのように遅れはじめ、そして止まった。
  足音の主は、自らの教室の前で、扉に手をかけることなく立ち止まっていた。
  なぜ、こんな事になったんだろう。
  は昨日の出来事を思い返す。
  新しい学年が始まり、にとっては泥門に来て初めてのクラス替えがあった。
  友人の咲から聞かされた「泥門の悪魔」と同じクラスになって――――――そこまではともかく、
  知らぬ間に学級委員長へと推薦され、あげくその「泥門の悪魔」とは隣の席。
  そして―――――――


 (彼を副委員長に指名します)


  そこまで思い出して、はこめかみを押さえた。無意識に眉根も寄っている。
  なぜ、彼を――――――蛭魔妖一を、指名したのだろう。
  わからない。全くわからない。
  「学級委員長としてクラスメイトの素行を注意する必要があり、特要注意人物がいるなら
   自ら傍で監視するのが一番だから」と理由を言えと言われれば答えられる。
  だが、全くの後付けだ。自分がそれは一番よく分かっている。
  しかし、あのときの自分はそんな大層な事はもちろん考えちゃいなかったのだ。
  乗せられたのだろう。自分が。あの悪魔の挑発に。
  冷静に自分の心境を分析してみて、改めて自己嫌悪に陥る。
  あんな子供の言い合いのような物に、自分が乗せられてどうするのだ。
  
  
  くだらない。


  思考に楔を打ち込み、それ以上の回転をストップ。
  考えても仕方ない。もう済んだ事なのだから。
  無理やり結論付けつつ、は教室の扉を開けた。

  伽藍とした室内に、ガラガラとドアの開く荒い音が響く。
  クラスメイト達の姿はなく、幾つかの机の上に荷物が置かれている以外には人の気配もなく――――


「よぉ。」


  ―――訂正。

  そこには、昨日からの頭痛の種、蛭魔の姿があった。


「どうしてこんな早くからいるのよ」
「いちゃ悪いか。朝錬もあるし、他にも色々こなさなきゃなんねぇ事があるんだよ」


 そういいながら相変わらず彼の机の上にはノートパソコン。
 今日はそれに加え、同時に携帯電話3台も扱っているらしい。なんて男だ。


「そういえば、部長もしてるって言ってたっけ。何部?」


 自分にとっては当たり前の疑問で当たり前の質問だったのだが、彼にとっては意外だったらしい。
 忙しなく動いていたその手を止め、蛭魔はの方を振り向いた。


「この学校にいて俺の事知らねぇヤツもいないと思ってたけどな。…アメフト部だよ」
「ほっといて。そもそも1年の終わりに転校してきたばかりだし、知らなくても仕方ないでしょ」


 不思議そうな表情でを見ていた蛭魔の顔に、納得の色が浮かぶ。


「なーるほど。それで俺のコイツにも、情報がなかったわけだ」


 制服の内ポケットから黒表紙の手帳を取り出し、ひらひらと振って見せる。
 脅迫手帳。そのシンプルな表紙には、確かにそう書かれていた。


「本当だったのねー。咲が言ってた事も、あながち全部が全部噂だけって訳じゃないのね」
「咲?」
「友達よ。貴方についての事色々教えてくれてたけど、てっきり噂が一人歩きしてるだけかと思ったわ」
「泥門の『金髪の悪魔』は、脅迫手帳と機銃を抱えて学校を仕切ってるってか」
「そ。少なくとも前半は本当だって分かった」
「ケケ、残りは今から嫌でも分かるだろーよ」


 蛭魔はそういいながら、脅迫手帳に何やら書き込んでいる。
 先程得た「」の情報を書き留めているのだろう。は今後の事を考えると背筋が多少寒くなったような気がした。


「で、こんな早くから何してるの?」
「あぁ?ほっとけ、お前にはカンケーねぇよ」
「あるわよ。私、今日から1週間、アメフト部部長様のお手伝いでもありますから」


 そう言って、蛭魔の席へと近づく。
 彼は諦めたような顔で、一枚の紙をへと渡して見せた。
 アメリカンフットボール、春季大会。さっと目を通した紙には、そう銘打ってあった。


「助っ人集めだよ。明日は試合だからな」
「助っ人?なに、アメフト部人数足りてないの?」
「うっせー。何でもいいから、今日中に最低8人だ。これが出来ねぇと、試合も糞もねぇ」


 から紙を取り返し、蛭魔はクシャクシャと丸めて、教室の隅の屑篭へと投げ捨てる。
 そうしてまたすぐ、彼の視線はパソコンと携帯へと戻ってしまった。


「8人ね。了解」
「あ?」


 の言葉に、蛭魔が問い返す。


「集めなきゃいけないんでしょ?助っ人。手伝うわよ」
「転校してきたばっかでお友達もいないのに集まるわけねぇだろ、糞委員長」
「やってもみないで諦めるの、好きじゃないの」
「・・・ケ、この負けず嫌い女」
「何とでもいって」


 放課後、部室に集合だ。
 そういい残して、蛭魔はパソコンを抱え、教室を出て行った。


 こうなったらやってやろうと思う。とことん。
 ウダウダ考えていたって始まりはしないのだ。
 そうは決意した。


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 今日は土曜日。
 授業は昼には終わり、生徒達は思い思いに放課後の自由な寄り道ライフを満喫しようと
 さっさと教室を後にし始めていた。


ー♪今日一緒にご飯食べて帰ろーよっ」


 隣の席からは、いつの間にか帰り支度を整えていた咲が声をかけてきた。


「ごめん、用事あるから」
「えー!なんだぁ残念〜。用事って?学級委員長の仕事?」
「うぅん、そうじゃなくて」


 アメフト部の手伝い。そういうと、咲の顔色が一変した。


「あ、そっか、昨日そんな話になってたっけ…」
「咲、心当たりない?アメフト部の試合に助っ人で出てくれそうな人」


 自分と違って入学時から泥門にいる咲なら、自分よりも人脈は広いだろう。
 そう当てにして、咲に尋ねてみるが、あまり彼女の表情は晴れない。


「う〜〜〜ん…いない、かなぁ」
「一人も?咲、バスケ部だから男バスの人たちとも交流あるでしょ」


 咲は泥門の女子バスケ部に所属している。
 もちろん男子のバスケ部もあり、同じ部活同士、練習を同じ体育館で行う時もあるはずだ。


「そうなんだけど…去年、やっぱりアメフト部の助っ人で、体育系の部活の人たちが何人か試合に出たのね。
 その時、怪我人も出たりしたから…みんな、あんまり出たがらないみたい」


 はあまりスポーツには明るくないが、アメフトがどのようなスポーツかは知っている。
 確かに激しいスポーツではあるし、助っ人で怪我をしてしまっては、本来の部活にも支障が出るだろう。
 は納得し、咲に礼を言った。


「そっか。ありがと、咲。後でまた周ってみるわ。とりあえず、部室に行かないといけないから」
「うん、頑張ってね!あ、アメフト部の部室だったら体育館の裏だからー!」


 そういい残し、咲は教室を後にした。









 アメフト部の部室は、校内でも奥まった所にひっそりとあった。
 むき出しのコンクリートの壁に仕切られた建物の中からは何の気配もせず、未だ誰もここを訪れていない事が予想される。
 扉を開けようか、それとも外で待つか。が一頻り考えていると、後ろから声がかかった。


「ケケ、早いじゃねーか」


 振り返れば、そこには既に見慣れたような気にさえなる金髪。


「何ぼーっと突っ立ってんだ。中入れよ」


 そう言いながら蛭魔は部室の扉を開けると、大きなバッグを肩から後ろへと提げたまま中へ入ってゆく。
 もその後に続いた。


 片付いている、とはお世辞にも言えない部室。
 そこいら中にユニフォームやヘルメットなどが散乱し、ダンボールに半分突っ込まれたままのように放置されている。
 思わずの口から感想が漏れる。


「汚っ」
「うるせー。練習で片付けどころじゃねーんだよ」


 洗濯されているのかされていないのかよく分からないタオルや、飲みかけのペットボトルなどが机の上に散らばり、
 床には多数の紙切れやアメフトの雑誌らしき物も落ちたままになっている。
 蛭魔はその辺りに置いて(?)あるものを手で払うと、荷物を置き、適当な椅子へと腰掛けた。


「で、助っ人は集められそうかよ?糞委員長様」


 挑戦的な瞳で、蛭魔がそう問いかけてくる。


「一応、知り合いのバスケ部に声はかけてみたけど…良い返事は貰えそうにないわね」


 先刻の咲の様子では、直接掛け合ってもあまり期待は出来ないだろう。
 そもそも、自分の直接の知り合いではないし、なんせ部長がこの悪魔だ。
 好き好んで助っ人を引き受けてくれるような人間など、そういるはずもない。そうは考えていた。


「ケケ、そんなこったろーな」
「何よ、蛭魔は助っ人の当てがあるの?」
「まーな。とにかく残りのメンツがそろってからだ。助っ人探しはな」


 残りのメンツ。アメフト部の残りの部員達であろうか。
 そういえばそもそも、自分はアメフト部の正式な部員が何人在籍しているのかすらも知らない。
 その場の雰囲気で引くに引けなくなった蛭魔の手伝いだが、自分はあまりにもアメフトについて何も知らなさ過ぎる。
 こんなことでは、先日交わした「1週間の手伝い」の約束も果たせないのでは…
 果たせなかったら、そこに待っているのは『蛭魔の奴隷』待遇だ。
 これは、思った以上に気を引き締めてかからなければならないかもしれない。
 そうが考えていたとき、不意に背後の扉が乱暴に開いた。


「うわわ、ごめんヒル魔、遅くなっちゃった――――って、あれ?」


 そこには、到底高校生とは思えぬほどの巨体と、それに似つかわしくない穏やかな声をした生徒がいた。


「遅えぞこの糞デブっ!ついでに、糞チビはどこに行きゃーがった!」


 バタラタタタタタ!!!
 狭い部室内に響く機銃の音と共に、その巨体の後ろから今度は対照的に小柄な少年が恐る恐る顔を出した。


「あ、あ、ヒル魔さんごめんなさい、遅くなりました」


 細い体。蛭魔もアメフトをやっているとは想像出来なかった程の細身だが、この少年は細身というより――貧弱、だ。


「君も、アメフト部員なの?」
「え?あ、はい、選手ではないですけど…」


 思わず浮かんだ素朴な疑問を、そのまま口に出してしまったに、訝しさを感じ取ったのか、少年はそう付け加えて答えた。


「ビックリしたわ。アメフトって詳しくないけど、筋肉ムキムキなイメージがあったもの。蛭魔でも細いなって思ってたのに、
 君みたいな男の子があんな激しいスポーツするとこ、想像つかなくて」
「あ、あはは。そうですよね。あ、僕は1年の小早川瀬名です。えっと、先輩…ですよね?」
「2年よ。。そこの蛭魔のクラスメイト」
…先輩、ですね。よろしくお願いします――って、どうして今日はここに?」
「そうだよ蛭魔。なんでさんがここにいるの?」


 先程の巨体の生徒が、小早川と名乗った少年と不思議そうな目を蛭魔に向けた。


「色々あってな。1週間、アメフト部の奴隷だ」
「ちょっとちょっと、まだ奴隷じゃないわよ。お、て、つ、だ、い」
「ケケケ、似たようなもんじゃねーか」
「全然違うわっ」


 すかさずツッコミ。訂正。
 その様子を見ていた2人のアメフト部員は、呆気に取られたようにぽかんと口を開けてこちらを見ている。


「どしたの?」
「あ、いや、何でもないよっ!僕、2年の栗田良寛。よろしくね、さんっ」


 ニコニコと人の良さそうな笑みを満面に浮かべて握手を求めてくる栗田に、は快く応えた。


「こちらこそ。1週間だけだけどよろしく」
「僕の事はセナって呼んで下さい、先輩」


 なんだ、2人とも真っ当な人間じゃないか。そんな事をは内心感じていた。
 部長がアレだから、てっきりアメフト部は悪魔の巣窟だと思っていただが、そうでもなかったらしい。
 暫く和気藹々とした空気が流れる中、それを破ったのは再び響き渡った銃声だった。


「和んでるとこ悪いがな。時間がねーんだ。助っ人探し行くぞ糞共!!」
「あ、そうだ、助っ人…」


 蛭魔の怒声と栗田のつぶやきに、部室内が一気に逼迫した雰囲気に変わる。
 そうだ、試合は明日。
 それまでに最低8人、どうしても集められなければそこで終わってしまう。


「一人ノルマ3人だ。どんな手使ってもいい。運動部のヤツら掻き集めて来い!!」
「ねぇ、蛭魔」
「あ?」
「なんで最低8人なの?」


 の質問に、蛭魔の険しい表情がますます厳しい物に変わってゆく。


「なんでって、11人いねーと試合やれねーだろーが!」
「知らないわよそんなの。私アメフトの事詳しいわけでもなんでもないもん」


 そうなのだ。もともと自分はアメフトの事など全く知らない。
 1チーム何人なのか、どうやったら得点が入るのか、1試合何分なのか。
 そんな基本的な事さえも、全く知らないのだ。


「ケッ、そんなんでよく手伝いなんてやる気になるな」
「元はといえば蛭魔が出した条件でしょうが」


 蛭魔はそう言い捨てると、部室の隅にある机の引き出しを引っ掻き回し、1冊の本を投げてよこした。


「お前は助っ人集めはナシだ、糞委員長。その代わり」


 ばさり、との手元に投げられたのは、アメフトのルールブック。
 軽く中を開いてみれば、細かい字でびっしりと綴られている。


「これ今日中に読んでルールくらい覚えとけ」
「…今から?」
「たりめーだ。後でちゃんとテストするからな。覚えられなかったら奴隷決定」


 ケケケ、と笑うその顔が、このときほど悪魔に見えた瞬間はなかった。
  





 それからは、時間との戦いだった。


 何せ、は全くといっていいほどアメフトの知識はなかったのだ。
 暗記は嫌いではなかったが、それにしても。


「3回の攻撃のうち10ヤード進めばOK…?いや、4回か」


 3回は野球だった、などとブツブツ何事かつぶやきながらルールブックと格闘する様は、
 助っ人集めに奔走する栗田やセナが時たま覗いては、あまりの不気味さに気づかれぬよう
 部屋を出入りする程だった。


 幾時間ばかりか、そうしていただろうか。
 突然大きな音を立てて開いた部室の扉と、乱暴な足音、そして、


「あの糞コンビニ!!!無糖ガム切らしやがって!!」


 相当ご立腹の様子で声を荒げながら戻ってきた蛭魔に、は思わず睨めっこしていたルールブックから顔を上げた。
 
 いつの間にか扉の外は夕闇に染まり、すでに校内に残っている生徒は幾人もいないだろう。
 ふと室内を見渡せば、いつの間に戻っていたのか、栗田とセナも意気消沈した姿で座り込んでいた。


「び・・・・・・っくりした。ドアくらいもう少し静かに開けなさいよ」
「あぁ!?」


 途端鋭く睨みつけてくる蛭魔は放っておいて、はがくりと肩を落としうな垂れている二人へと声をかけた。


「栗田君、どうしたの?助っ人、集まった?」


 の問いかけにも、力なく首を振るだけの栗田。
 彼が静かに指差した先へと視線をやると、壁にかけられた備品のホワイトボードがあった。
 そこには蛭魔、栗田、セナの名前が書き込まれた簡素な表。
 セナの欄には1つ、そして蛭魔の欄には7つのマークが貼り付けられている。


「なんだ、8人集まったんじゃない」
「8人じゃダメなんだ…セナ君は選手じゃないから…」
「あ、そういえばそうだったっけ…」


 ということは、蛭魔と栗田を入れても、一人足りないのか。
 そこまで考えて、何と言葉をかけてよいのかわからず、は口を噤んだ。
 試合に出られない。それは、彼らの大会が、ここで、終わってしまうということなのだ。
 その時、何かを考え込んでいるような深刻な表情のセナと、巨体を縮こまらせ今にも泣き出しそうな表情の栗田を尻目に、
 ツカツカとホワイトボードへと近づいて行った蛭魔は、


「お、そういえば途中から増やすの忘れてたな」


 あっけらかんとした様子でマークを増やしていく。
 10、11、12、13…次々と加えられるその印。
 その様子を呆然と見つめていた栗田の表情に、みるみる笑みが浮かんだ。


「や、やったー!これで大会に出られるんだね!!」


 の手を取り、ぶんぶんと上下に振り回す。
 良かったですね!と栗田の横で笑うセナ。
 あぁ、とは思う。
 彼らは、本当にアメフトが好きなのだ。
 アメフトの事など何も知らないだったが、彼らの心の底から嬉しそうな様子は、見ているだけでも暖かい気持ちになれた。


「やったじゃねぇ!ほとんど俺一人で集めてんじゃねぇか!!」


 2人の背中へと蹴りをかまし怒鳴る蛭魔は、ふと何かを思い出したような顔での方へと振り返った。


「おし、糞デブと糞主務。オメーらはこれで解散だ。明日集合時間に遅れんじゃねーぞ」
「分かりましたっ!」
「うん、了解!――あれ、でも蛭魔は?まだ帰らないの?」


 元気の良い返事と共に、栗田が不思議そうな声で蛭魔へ問う。
 それを聞いた蛭魔の表情は、悪魔の微笑みだった。


「まだ大事なテストが一つ残ってるんでな」



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