私にとっての学校生活は、春の訪れと共に、大きな変化を迎えた。

ある日、都会からやってきた転校生。

彼は、私の事は何も知らない。

私の過去も、現在も、彼は何も知らない。

彼の前では、私は私を取り繕う必要がなかった。





新しく、自分をやり直せるかもしれない。

そう、思っていた。





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<<5月13日、金曜、曇り>>


あれから悠は、のいる第2音楽室をよく訪れるようになった。
合唱部の活動日が、バスケットと吹奏楽、2つの部活の活動日とも被っていなかった事もあるが、
それ以上に何か惹きつけられる物を、悠はに感じていた。
明るく、穏やかに笑い、自分を迎え入れてくれる少女。
そんな表情や言葉の端に、時折混ざる痛みと淋しさ。
はっきりと言葉には表せないが、どこか放っておけないような、そんな気がして。

これまで誰も迎える事のなかったこの部屋は、週に2日、
たった一人の観客の為の小さなコンサートホールになっていた。

がピアノを弾き、笑い、そして言葉を交わす。
自分の部活の事、毎日の授業の事、昨日見たテレビ番組の事。
時には、自分が作ってきた弁当を一緒に食べた事もあった。
特別な話題などそこにはなかったが、穏やかな日常が確かにあった。


「あーあ、やっと中間試験終わったねぇ」


試験も終わり、最初の金曜日。
雑多に並べられた学校机の前の椅子に座ったが、んー、と伸びをしながら呟く。


「鳴上君は、転校してきて最初の試験だよね。どうだった?」
「まぁまぁ、ってとこかな」
「えー、なんか余裕そう。私なんてもーギリギリだよ、ギリギリ」


答案なんて燃えちゃえばいいのに、と机に突っ伏して独りごちる
その様子を苦笑しながら見つめる悠に、は続けてこう呟いた。


「…鳴上君は、自分じゃない自分になりたいって、思ったことある?」
「…え?」

机の上へ投げ出される様にして伸ばされた腕から先の指を捕らえているようで、
ここではないどこかへと向けられたような空虚な瞳。

言葉の真意を読み取れず、思わず聞き返す悠に、はっとした様子では慌てて続けた。


「あ、ごめんごめん。何でもないの。ちょっとぼーっとしてた」


困ったように笑う

自分じゃない自分。先ほど彼女の口から、文字通り『漏れた』と言ったほうが正しいそれは、何を意味するのか。
一瞬、どきりとした。それはまるで、自分がテレビの中で振るう力。自分でありながら、自分ではない存在。

―――我は汝、汝は我。

あの時、頭の奥底へと直接響くように聞こえた声が、悠の脳裏を掠める。
彼女があの世界の事を知っているという事はありえない、筈だ。
自分達の仲間以外の人間があの世界へ出入りしているのであれば、まずあのクマが気付いているだろう。
そうではない、という事は。

(彼女も、心に傷を背負っているのだろう、か)

陽介や千枝、雪子を救出した時の事を、悠は思い出していた。
彼らも、その明るい仮面の下に、傷つき苦悩する心を隠していたのだ。
それは自らも目を背けてしまうような、黒い、渦巻くような感情。
認めるのは恐ろしい。汚い。忘れてしまいたい。どれも自分で、それは消せない物だ。
その煩悶を、彼ら仲間達は正面から受け入れ、少しずつ、消化しようとしている。


「皆、一度は思うんじゃないかな」


思わず、悠はそう口にしていた。
は驚きともつかぬような表情で、悠を見返してくる。


「程度は人それぞれかもしれないけど。勉強が出来るようになりたい、スポーツ万能になりたい、とかさ。
 今の自分に足りない物、必要としている物を求めるだろ。それも、ある意味「今の自分じゃない自分」だ」


手に入れられる物もあれば、手に入れられない物もある。
ただそれは、手に入れようとあがく人間にしか、手にする資格はない。
その経過を無視して何かを望んだとしても、それはただの「我侭」だ。


「…そっか、そうだね。鳴上君、頭いいなー」
「茶化すなよ、真面目に言ってるんだから」
「ほんとだよ、本当にそう思ってる」


ありがとね、と微笑む。と、その時2人の頭上から下校時刻を知らせるチャイムが響いた。


「あ、もうこんな時間かぁ。帰らなきゃね、そろそろ」
「そうだな」


また来週、と手を挙げ教室を後にする悠を手を振って見送る。

静かに扉がスライドし、ぴしゃ、と音を立てて閉じた。
遠ざかる足音に比例し、振っていた手が、力が抜けたようにだらりと下がった。


「ありがとう、鳴上君」


彼の優しさから出た言葉だと、わかっていた。
自分を励ますために、同調の言葉をかけてくれたのだろう、と。


「でも、ね」


誰もいなくなった教室。
自分にすら聞こえないであろう程の小さな小さな声が、下校時刻を向かえて帰り支度を始めた
生徒たちの足音や雑音に、簡単にかき消されていく。


「私は、私を消してしまいたいの」


そんな、弱くて汚い自分を。
貴方に曝してしまう前に、私は。


最後のは音にすらなっていない言葉を、は息とともに吐き出した。


斜陽に照らされたリノリウムの床に、ぽとりと雫が落ちた。



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お待たせした割に、あまり話が進みませんでした;
ヒロインは、他の仲間達と同じように、心の奥に苦悩を抱えています。
それが後々のペルソナ発動、仲間入りへと繋がっていくのですが…それはまた後の話。