あれから、あの日の言葉通り、鳴上君が第2音楽室に姿を見せる事はなかった。


あの教室は、今までと同じ静謐を取り戻した。


傾く陽を窓の外から映りこむ木々の影で感じ、ふと顔を上げ時間を確認すれば、もう下校時刻近く。
きっと、ここに鏡があったら、私はひどく自嘲的な表情をしているんだろう。
そんな物がなくてよかった、と心の底から思った。
今まで通りの静けさに傷つく自分を、これ以上自覚させられたくなかった。
ふ、と漏れた息と共に指の重みを鍵盤へかければ、ぽーんと軽い音が室内へ響く。


ここに在る音は、ただ一つ、それだけだった。




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<<5月29日、日曜、曇り>>



朝からかかってきた一条からの電話に呼び出され、悠は四目内堂書店前に来ていた。

先日から行方がわからなくなっていた巽完二の捜索も、無事救出出来たことで終わりを告げ、
まだ何も犯人への手がかりを掴めぬまま、彼の回復をとにかく待つ事になり。
自称特別捜査隊は、つかの間の日常を取り戻した。

長瀬、一条と談笑していたところへ千枝も加わり、何気ない会話を交わしていたその時、
悠は書店の奥から、見慣れた姿がこちらへと近づいてくるのに気付いた。



「あ…鳴上君」


呼びかけに気付いたが一瞬はっと顔を輝かせ、悠の方へと一歩駆け寄る。
が、すぐさまその歩調を緩め、少し怯えたような顔色を覗かせた。


「久しぶり」
「うん、ほんとに。久しぶり」


学校の外で会うなんて、初めてだねと笑う。肩から提げた大きなバッグが、
どちらかというと小柄な彼女に不釣合いに見えた。
大事そうに両手でその柄を握るに、悠は尋ねる。


「本屋に用事?」
「そう、頼んであった楽譜を取りに来たの」
「ピアノの?」
「うん、今度弾こうと思ってる曲」


また練習頑張らなくっちゃ、と微笑むに、悠は以前のと変わらぬ安心感を覚えていた。
と、悠の背後から別の声がかかる。


「鳴上、お前さんと知り合いだったの?」


そう声をかけたのは一条だった。どうやらと一条は知り合いらしい。
そういえばも一条も同じ1組だったか、と悠は思い当たり、と知り合う事になった経緯を
かいつまんで説明する。


「なるほどねー。お前も部活2つ掛け持ちした上に合唱部にまで顔出してたなんて、体力あるなー」


若いからか?ととぼけたジョークを飛ばす一条に、が慌てて割って入る。


「あ、ち、違うの!合唱部に入ってもらった訳じゃないから!」
「あー、そうなの?」
「てか、文化部同士の掛け持ちは認められないだろ、うちの学校」
「あ、そか」


珍しく長瀬に指摘され、一条がもっともらしく頷く。
は、どこかきまりが悪そうに悠の少し斜め後ろに立ったまま、そわそわと俯いていた。


「急いでるの?


の様子を見て悠が助け舟を出す。
それを受けて、ははっとしたように頷き、答えた。


「え?そ、そう。急いでるんだ。じゃあ、またね。一条君も」
「お?おう、じゃーなー」


慌てるように駆け出すに、悠は後ろから呼びかけた。


「今度の水曜は、音楽室行くから」


その言葉を待っていたかのように、振り返ったの顔には喜びの色が満面に浮かんでいた。


「ほんと?!」
「ああ、じゃ、また学校で」
「うん!待ってる!」


そう言い残し、今度こそ通りの向こうと駆けて行くを見届けてから、悠は一条らへと振り向き直る。
長瀬や千枝達は一様に、不思議そうな、意外そうな顔をしてが消えていった方を見つめていた。


「いやー、鳴上がさんと知り合いだったなんて、意外だったよ」


そうしみじみと語る一条に、悠は不思議そうな顔をする。


「どうして?」
「俺、さんとは1年からずっとクラス一緒なんだけど、なんつーか、近寄り難いっつーか…」


言い辛そうに、うまい言葉を捜そうとする一条。
…近寄り難い?あの少女に?
悠は、に初めて会った時の事をふと思い返した。
柔らかく、はにかむ様に笑う少女。
自分と同級とは思えないほど、少し幼さの残る容貌。
あの第2音楽室でよく話すようになってからは、ますますその人懐こさを感じさせた。
屈託なく笑うその様子と、時折ほんの一瞬混じる憂いのギャップが、どこかしら
放っておけない気持ちにさせるような、そんな危さはあったが。


「なんか、俺らとは住む世界が違うっつーかさ。ほら、昔っからピアノで有名だったじゃん」
「あ、それ何か聞いた事ある。コンクールで賞取ったりしてたって」
「そーそー、それ。んで、中学卒業した後、都会の音楽学校に進学してたんだけど、
 1年の途中で八十稲羽に戻ってきたんだよな」


地元民だけど、転校生って意味じゃお前と一緒だな、と語る一条。


「学校もちょくちょく、ピアノのレッスンだとかで休んでんだ。先生らも了承済みでさ。
 いっつも楽譜持ち歩いてるし、俺らクラスメイトとしちゃー邪魔しちゃ悪いなー、みたいな…」
「なるほどねー。そりゃ、確かに近寄り難いっちゃそうかも」
「そうか?そんだけ何かに一生懸命になれる奴なら、良い奴に決まってるだろ」


うんうん、と納得気に頷く千枝に、横から長瀬が突っ込む。
イヤな奴って言ってるわけじゃないだろ、と否定する一条。
悠は、彼らのやり取りを側で聞きつつも、やはり拭えない違和感を抱えていた。


「まー、基本悪い子じゃないと思うんだけどさ。…なんつか、変な噂みたいのもあって」
「…噂?」


うーん、と言い辛そうにしている一条を、悠が静かに促す。


さんが都会の音楽学校を辞めたのは、なんか事件起こした所為だって」
「事件?」
「俺も良くは知らないけど、クラスメイトへの暴行事件だとか、なんとか」


一条から発せられたあまりの内容に、悠だけでなく千枝や長瀬も一様に驚いた表情を見せた。
あの少女が、暴行事件を起こす?
あまりにイメージが沸かず結びつかない言葉に、悠は思わず口を開いていた。


「ありえないだろ」
「うん、私もそう思う。…さんの事良く知らないけど、そんな風な子には見えないよ」


一緒に同意する千枝も、横で無言で頷く長瀬も同じ感想を持ったようだった。


「大体、本当だったらもっと噂が広まってるよ。このド田舎だし」


千枝の意見に、悠も同意だった。それは確かにそうかも知れない。
先日の巽完二の救出の際に町中を聞き込みして回ったが、町の人間が大なり小なり完二のことについて
知っているような口ぶりだったのだ。
そんな噂の早いこの町で、そんな事件を起こして出戻った人間がいれば、すぐに噂になってしまうだろう。


「まぁ、俺も信じてる訳じゃないけど…さん家、結構大きい家だから。そういうのも含めて
 余計な噂みたいになってんじゃないかな」
「そういうのって?」
「いやぁほら…『揉み消し』とかそういうの」
「何ソレ?!そんなゲスな噂してる奴のほうがよっぽどサイアクだよ!」
「いや、だから俺が言ってる訳じゃないよ里中さん!」


激昂する千枝に、慌てて釈明する一条。
一連の話を聞いて、悠にはの時折混じる淋しさの理由が少し分った気がしていた。
そんな噂が本当だとしても(信じた訳では決してないが)周囲の人間から距離を置かれていたら、
それは彼女に取ってはとても辛いことだろう。
ましてや、根も葉もない噂なのだとしたら尚更。


「今度、会った時に聞いてみるよ」
「ええっ?!お前、勇者?!」
「嘘の噂で苦しい思いしてるなら、そんなのフェアじゃないだろ」
「そ、それはそうだけど…」


戸惑う二人を他所に、悠は次の水曜日にあの教室へ向かう事を、改めて決意していた。
彼女の口から漏れた言葉。時折浮かぶ、彼女の心の弱音のようなあの瞳の色。
一人で苦しんでいるなら、それが自分の助けられる事なら、手を差し伸べてやりたい。
…どうして?と問う自問の声に、今の悠には答えを出せる程の確信はなかった。
ただ、また彼女のピアノが聞きたい。優しく柔らかい、あの空気の中で。
ハッキリしているのは、それだけだった。それだけで、十分な気がした。












「お帰りなさい、お兄ちゃん」


家に帰ると、いつもの様に一人自宅で留守番をしていた奈々子から声をかけられる。


「ただいま。…ごめんね、一人でお留守番させて」
「ううん、大丈夫だよ。テレビ、見てたから」


そう言ってまた菜々子は目の前のテレビに視線を戻す。
画面の中では、ゴールデンタイム前のローカル番組らしき物が流れていた。
どうやら、地元の若い才能を発掘しプロデュースしていく、という内容の新番組らしい。
手を洗い、冷蔵庫から飲み物を取り出した悠が居間へと戻って来ると、地元局のアナウンサーによる
一人の少女の密着取材の様子を流している所だった。


『……さんは、どうして音楽への道を志そうと思ったの?』
『え、ええと…』


スタジオだろうか、広い室内に置かれたシンプルなソファとローテーブル。
にこにこと笑顔で少女から言葉を引き出そうとするアナウンサー。
向けられていないマイクに戸惑っているのか、言葉に詰まっている様子の少女が映った瞬間、
手にしていたペットボトルを思わず落としそうになり、慌てて握りしめる。


『ピ、ピアノが好き、だったからです』
『そうですかぁ〜!やはり、好きこそ物の上手なれ!ですね』


そこに映っていたのは、だった。
ドレスアップされ、普段の幼さが残る容貌からは考えられないほど、大人びた印象に見えた。
思わず画面に視線が釘付けになる。


「お兄ちゃん、どうかしたの?」
「え?」


様子が違うことを感じ取ったのか、奈々子が怪訝な顔をして尋ねる。


「このお姉ちゃん、とってもピアノが上手なんだって」


菜々子も鍵盤ハーモニカ大好きなんだ。
そう言って楽しそうにテレビを見ている菜々子の言葉は、悠の脳裏のどこか遠くで響いた。



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やっと少し話が進展した…か、な?
ヒロインがテレビに登場。と、いうことは、大体次回の
展開がわかっちゃいますねw

2011/10/30


photo by Sweety