静寂さに包まれた室内。
響くのは本のページをめくる紙ずれ音と、熱心に目の前のノートへと向かう筆記音。
試験まで1週間を切ったある日、八十稲羽高校の図書室は、試験対策の勉強に
追われる生徒達で、普段より若干の盛況ぶりを見せていた。


「え、ええっと…三角形の頂点ABCの位置ベクトルを次のように…」


ペン先をゆらゆらと彷徨わせながら、は必死に問題へと取り組む。
数日後に控えた試験に備えるべく、数学の特訓にと図書室で勉強する事にしたのは小一時間前。
前回の試験、テレビの中での活動が響いたのか、以前より点が下がってしまっていた
にとって、今回の試験はこれ以上後のない戦いだった。


「…AB,BC,CAの中点をL,M,Nとする時…」


小声でぶつぶつと問題文を反芻しl真面目に勉強に集中しているかのような様子のだったが、
教科書の問題を見つめる瞳が虚ろになり始めたのを、目の前に座る悠は見逃さなかった。


「こら」
「んあ」


人差し指で額を突かれ、思わずの口から奇声が漏れる。
目は問題文をなぞりながらも、脳は意識と無意識の狭間へと旅立ち始めていた所を、
急速に現実へと引き戻される。
は、と眼を見開けば、そこにはいつもと同じ冷静な表情の悠が、同じように教科書と
ノートを机に広げたまま、自分を見つめていた。


「今、あっちの世界に旅立ってただろ」


全く、と言いつつこちらを見つめながらほんの少し口元を緩ませる悠に、どきりと胸が鳴る。
彼―――鳴上悠にテレビの中で命を助けられ、彼らと行動を共にするようになって暫くが経った。
それまでは知り得なかった悠の姿を見て、色々と気付いた事がにはあった。
沈着冷静、クール。そんな噂も真実ではあるが、実はとても熱いものを心に秘めている事。
自身の分身、ペルソナを駆り、テレビの中でシャドウへ立ち向かう彼の姿は、まさに
彼のペルソナを模したように勇壮で、気高い。
ところどころ茶目っ気で悪戯好きな気質もあるが、そんな所も人を惹きつける魅力がある…と思う。

要するに、惹かれているのだ、この人に。
こんな些細な反応ですら、血液が全て入れ替わるかのような衝撃を受ける、程に。


「で、どこがわからないんだ?」


そんな自分の反応を知ってか知らずか、先ほどより身を乗り出し、教科書を覗きこんでくる悠に、
さらに早くなる鼓動を持て余しながらもは答えた。


「えっと…これ、なんだけど」
「あぁ…ベクトルか。これは…」


反対から器用に問題文を読みつつ、手に持ったシャープペンシルで教科書とノートを往復しながら
丁寧に解説を始めた悠に、は再び眼を奪われる。

伏し目がちな眼に、長い睫。さらりとかかった、柔らかそうな前髪。
少し低めで、落ち着いた声色。それを紡ぎだす、薄い綺麗な血色の唇。
細く、形の良い長い指。男のそれだが、けして武骨ではなく、すらりと伸びている。

の視線は、教科書へなどではなく、悠の方へと自然と集中していった。


「こら」
「ふぇ」


本日2度目の奇声と共に、意識が無理やり覚醒させられる。
軽いデジャヴを感じつつ、前を見やれば、先ほどと同じ表情で自分の額を指で小突く悠の姿だった。


「…もう、全然身に入ってないな」
「う…ごめんなさい」


呆れたように、小さく溜息を付く悠。その瞳は、若干咎めるようにも見えた。
の側へと乗り出していた体を椅子の背もたれへと戻し、手にしたシャーペンを
自分のノートの上へ置きながら、悠は続けた。


「試験も近いんだし…今回は頑張らなきゃって言ってたのは、だろ」


今回の図書室での自習に悠を誘ったのは、の方だった。
今更足掻いたってどうにもなんねーじゃん?と開き直る陽介は放置し、一緒に勉強しようと誘ってくれた
千枝や雪子の誘いを断り、昼休憩に放課後の自習へ付き合ってほしい、と頼み込んだのだ。
もちろん、それは自分より成績の良い悠と一緒なら、自分の勉強のペースも上がり、
更に分らないところは質問出来るという計算もあったにはあったが。
それ以上に、いつもは仲間と過ごす事の多い放課後を悠と2人で過ごせる事に、は心躍らせていた。
それが…仇に出たのか。


「俺がいるから集中出来ないんなら、少し離れて勉強しようか」
「え?え??」


そう言うが早いか、椅子から立ち上がり自分の荷物を纏め始める悠に、は俄かに慌て始めた。


「俺、あっちで勉強するから。分らない事があるなら質問しに来ればいいし」
「あ、あの…鳴上君」
「じゃ、また後で」


の動揺などおかまいなしに、数列ならんだ長机の、とは1列間を空けた所に席を取り直す悠。

頭の中は、真っ白だった。

呆れられたろうか。いや、そうに決まっている。
当たり前だ、自分から勉強したいから付き合ってと誘っておいて、懇切丁寧に解説してくれていた相手に
対して、あまりに失礼な態度に映っただろう。それも2度も。
かといって、何を思い耽っていたのかを彼に弁明するには、自分にはそこまでの勇気はない。
『思わずその唇や指先や首筋に見とれてました』なんて、一歩間違えれば変質者として通報。良くてドン引き、だ。
そんな事は口が裂けても言えない。言えない以上、誤解を解く術もない。
呆れられた、だろうか。いや、もしかしたら愛想を尽かされてしまったのかもしれない。

そこまで思い至った瞬間、目頭の奥が熱くなるのを感じた。
喉からせり上がる声を押し殺すように、咄嗟に口元に手をやり、抑える。
まずい。ここでは、泣けない。
離れているとはいえ、悠からも容易に見渡せるこの場所で、涙を見せる訳にはいかなかった。
は椅子から立ち上がると、長机が並べられたスペースから更に奥、本棚が立ち並ぶ奥へと足早に駆け入った。


古めかしい装丁、少し埃の被った背表紙。
図書室の中でも一番奥の壁際まで、はとぼとぼと歩いてきていた。
特に目的の本があった訳ではもちろんなかった。ただ、悠や他の生徒達から目につかない場所。
死角になる場所であれば、どこでもよかった。
抑えていた熱いものが、再び溢れようとしてくる。
力の抜けそうになる足を内心で叱責しながら、右手で口元を押さえ、反対の腕は目の前の本棚へともたれていた。

立て直さなければ。自分を。心を。でも。


「嫌われた…のかな」


不安が小さな音となって漏れた。瞬間、目尻からも一粒の雫が流れ落ちる。
思わず目蓋を閉じた、その時だった。


「ごめん」


少し低い、落ち着いた声が、背後で響く。
同時に暖かさを背中に感じ、一瞬強張らせた身体から、力が抜けていく。
少し遅れて、声の主に気付き、眼を開けて振り返ろうとした。が、身動きは取れない。
かろうじて視線を左へと動かせば、本棚にもたれかかるようにしていた自分の左手は、
一回り大きな掌の中へと包まれ、捕らわれていた。


「なる、かみ、くん…?」


先ほどまで死にそうに凍り付いていた自分の心臓が、現金なほどに早く脈打ち始める。
こんなにも自分の身体は素直に作られていたのか、と感心するほどに。


「ごめん、


再度の謝罪。訳も分らずはパニックになる頭を堪えて問いかける。


「え、何、何が…」
「あんまりにもがぼーっとするから」


の左手に添えられた悠のそれに、更に少し力がこもる。
気付けば、悠の反対の腕はの後ろから腰を回り、半分抱きかかえられているような形になっていた。
今の自分達の体勢を認識した瞬間、の脳は完全にパニック状態になる。


「鳴上、君、あの…」
「…ちょっとしたお仕置きのつもりだったんだけど」


の語尾に被せるように、悠の言葉が続く。
徐々に強くなっていく悠の両腕の力。
密着した背中。彼の息遣いすら感じられるほどの距離。
沈んだ声色で呟く悠を心配し、自由になる首を左へと捻り垣間見ようとするが、届かない。


「ううん、鳴上君が怒るのも無理ないよ。私がぼーっとしてたのがいけな…」


早鐘を打つ心臓を宥めながらなんとか発した言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。
不意に、塞がれる視界。唇に触れる、感触。
視界を遮ったのが彼のさらりと流れる前髪で、触れたのが彼の唇だとが気付くには、一刻の遅れが生じた。


「………っ、――?!」


言葉にならない、呼吸音のような音だけを繰り返す
目の前には、いつもと変わらない優しさにほんの1滴、悪魔の成分を垂らした笑みがあった。


の落ち込んだ顔見てたら、我慢できなくなった」


可愛くって、さ。
そう言って、いまだ反応が出来ないの唇にもう一つ口付けを落として、悠はその束縛していた

腕から力を抜いて離れた。


「ほら、続き。行くぞ」
「え…あ、つ、続き?」


踵を返し、そう促す悠に、はまだついていかない頭をどうにか整理し、聞き返す。


「試験勉強。…まだ終わってないだろ?」
「う、うん…」


立ち並ぶ本棚の横を通り抜け、まだ自分達の教科書が置かれたままであろう長机へと戻ろうとする
悠の後ろを付いて歩こうとした、その時。
再び、悠が半身こちらを振り返り、笑って言った。


「次ぼーっとしたら、お仕置きの続きだから」


あの、1滴だけ加えた悪魔の微笑みで。





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無駄に長い割にどうしようもない話になってしまった…。
うちの番長は、基本的に変態でS傾向になりがちです。
   落ち込んだ顔とか泣き顔とかご馳走です!みたいな。…変態ですね。すいません。

2011/10/28