すぅ、すぅ。

 規則的に聞こえてくる律動。

 しんと耳をすませていなければ聞き取れないだろう程に小さなその呼吸は、
 自分が背を預け座っているベッドの上から聞こえてくる。
 振動を与えないよう注意深く振り返ると、普段の攻撃的で貪欲な笑みの男とは
 とても思えないような、穏やかな寝顔で眠っていた。

「・・・妖ちゃん」

 起こさないよう、小声でそっと名を呼ぶ。
 よほど深い眠りに入っているのか、全く彼が気づいて身を起こす気配はない。

 携帯のメールで蛭魔の自宅に呼び出されたのは、ほんの1時間ちょっと前のこと。
 今日は日曜日。本来ならゆっくり休みを二人で満喫しているはずだったが、
 試合を前にしたデビルバッツの面々に休みなどないらしい。

「疲れてるんだねぇ」

 蛭魔の前髪を、くるりと一巻き右の人差し指で巻き取ってみる。
 くるくる、するり。くるくる、するり。
 普段のように立ててあるヘアスタイルとは違って、柔らかい前髪。
 練習の後、自宅へ帰ってシャワーを浴びたのだろう。未だ少し湿った感触があった。

 全く起きる様子のない蛭魔に、の悪戯心がむくむくと湧き上がる。
 はそっと前髪から手を離し、そのまま右手をゆっくりと横へ滑らせた。
 つ、と指先に金属質の感触。
 彼が必ずいつも身につけているピアスに触れたのだ。
 そういえば外しているところは見た事ないな。お風呂もそのまま入るのだろうか・・・と考えながら、
 指先は止まることなく、ピアスの主の先端へと進んでゆく。

「・・・んぁ」

 と、突然彼の口から漏れた声に、びくっ、との指が止まる。
 尖った彼の左耳の先端へ指が触れた突端、蛭魔が身動ぎしたのだ。
 
 拙い、起こしてしまっただろうか。

 要らぬ刺激を与えないよう、息をも止めるようにはその場に固まる。

 どれくらいそうしていたのか、暫くして先ほどと同じように寝息を立て始めた蛭魔に、は安堵の溜息をついた。

 右を向き、布団に抱きつくような格好で寝ている蛭魔の、露になった左腕にそっと掌を置く。
 アメフト選手としてはかなり細身とはいえ、自分とは全く違う、しっかり筋肉のついた腕。
 その腕は、何を掴むために在るのだろう。
 
 彼にとって、何よりも大切なのは、アメフトだ。
 自分にとっても、アメフトの夢を、クリスマスボウルの夢を追い続ける蛭魔自身が、何にも変えがたい大切な物だ。
 それでも、そうだとわかっていても。
 一番で在りたい。蛭魔の、自分の愛しいこの人が、最後に選ぶたった一つが、自分であって欲しい。
 そんな我儘な想いが、思い出したように膨れ上がる時も、確かにあるのだ。

 気がつけばゆっくりと彼の腕を摩っていた掌が、きゅっと何かを堪えるように縮こまる。



 
 どうか、どうか。
 離れていかないで。
 指先を、腕を、伸ばして届くなら、
 見えない道も、一歩一歩自信を持って歩けるから。





「痛ぇよ」
「ふぇ?」

 不意にかけられた言葉に、は慌てて蛭魔の顔を見る。
 そこには、しっかりと目を開けてこちらを見つめる彼の顔があった。

「痛ぇっつってんだよ、腕」
「あ、ご、ごめんごめん」

 慌てて手を離そうとした瞬間、身動きのとれなくなった腕に驚いて目をやると、
 自分の右腕は、いつのまに掴まれたのか、しっかりと手首を蛭魔の左手で固定されていた。

 ぴくりとも動かない、自分の右腕。
 その、普段は感じない彼の力強さに、あぁやはり妖一はスポーツマンなんだなぁ、なんて
 ぼんやりと考えていたは、近づいてくる物の存在に気づかなかった。


 ふ、と唇を掠めたのは、体温。


 それが彼の、蛭魔の唇だったと気づいたのは、少し、本当に僅かに染まった彼の頬と尖った耳の先を見てから。


「妖、ちゃ」
「で、何を勝手に落ち込んでんだ?お前は」


 見透かされている。
 自分のくだらない不安も、情けない不安も、臆病さも。

 そう分かった途端、顔に熱く血が上っていく。

「なんでもないよ、別に私いつも通り――――――」
「ケ、上手く隠してるつもりか?」

 駄目だ、駄目だ、駄目だ。
 蛭魔は、全部知っている。
 自分の、という人間の、弱さを。
 知られたくなかったのに。この人にだけは。
 前だけを見て、確固たる心を持って、一歩一歩進んでゆく彼に置いていかれぬよう、
 彼の隣を歩いていけるよう、そんな人間でなければいけないのに、自分は。

「知ってんだよ、お前の癖くらい」

 そう言って、蛭魔はの鼻をきゅっとつまみあげる。

「痛い〜」
「そうやって落ち込んでたり悩んでたりする時は、このちっせぇ鼻で分かる」

 ぐりぐりぐり。上下に揺さぶられる鼻。

「ようひゃんいはいよ」
「何言ってんのかワカンネェよ、糞

 ケケケ、と笑いながら一頻りの鼻を弄って満足したのか、蛭魔がようやく鼻から手を離す。
 解放された鼻を擦りながら、はむぅっと頬を膨らませ、抗議した。

「何するのよぉ〜、鼻が取れちゃったらどうするのさっ」

 少し赤くなった鼻を庇いながら抗議してくるに、自然と蛭魔から笑みが漏れる。

「そんくらいで取れるか。で?」

 何を悩んでやがったんだ。そう目で問うてくる蛭魔。
 逃げられないのだ。この視線に捕まってしまっては。
 それ以上言葉を発する様子のない彼に気圧されながら、はぽつりと言葉を作る。

「あの、ね。ほんとに大した事じゃなくて、なんでもなくて」
「前置きはいい。さっさと話しやがれ」
「あのね・・・」

 いつまで、一緒に、いられるのかな。

 そう口にした瞬間、蛭魔の表情が変わったのが、俯いていたにも感じられる。

 あぁ、もう、だめ、だ。

 私は、私の弱さを、認めてしまったから。


「ばーか」
「いたっ」

 ぴんっ、と今度は額を指で弾かれ、鼻に当てていた掌で思わず額を押さえる。

「お前は頭悪りィんだから、そんな先の事まで考えなくていーんだよ」
「ひどっ!妖ちゃん、それはないよぉ」

 あまりの言われように抗議しても、彼は悪びれる様子もなく口元を半月に歪めていた。

「一緒にいられるかどうか、だぁ?そんなモン知るか」

 ぐしゃぐしゃと、頭を乱暴に撫でながら蛭魔は続ける。

「一緒にいるんだよ。今も、これからも。ずっとだ」

 そう言った時の蛭魔は、さっきと同じ、微かに頬が赤らんでいた気がする。そうは思った。

「…えへへ」
「何笑ってやがる、気持ち悪りぃな」
「なーんでもないよ」

 彼が、妖一がそういうなら、そうなのだろう。
 前だけを見つめる蛭魔の言葉は、いつだって自分の心にすとんと落ち着く。

「妖ちゃんが、そう決めたの?」
「あぁ。俺が決めた」
「じゃあ大丈夫だね、絶対」
「あぁ、大丈夫だ」



 ずっと、一緒にいよう。
 手が届くなら、指先が触れられるほどの距離に貴方の背中があるなら、
 私は明かりのない筈の道にも、道標を見つけられる気がするから。



 ずっと、一緒にいよう。
 手が届くなら、差し伸ばせば嬉しそうに掌を預けてくる貴女の指先がそこにあるなら、
 自分は明かりのない筈の道でも、前だけを向いて歩いていける気がするから。




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