38.7度。

  目の前の体温計の小さな窓は、ただ無機質に自分の体調管理の甘さを示している。

  ふ・・・ぅ。苦しげに短く熱っぽい息を吐き出し、昼前の高い陽射しを遮る様カーテンを閉めると、
  は再び寝台へと戻り、もそもそと潜り込んだ。



  事の始まりは昨日。
  両親共に忙しく働くの家庭は、元々殆ど家族3人が顔を合わせる事もないが、
  偶然にも珍しく休みを合わせて取れた両親が、昨日から休暇がてら旅行へと出かけ、家を空けていた。
  暫くは悠々と一人暮らしを満喫できる。そう思っていた矢先の翌日の事であった。

  学校は休むしかない。幸い今日は生徒会の仕事もないし、部活の方も特に言い渡されていた仕事もない。
  不幸中の幸い、怪我の功名とはこんなもんか。は起き上がる事は諦めて、布団の中へと再び潜った。



  チッ、チッ、チッ、チッ。



  シンプルなインテリアで纏められたの部屋には、余計な家具や家電もなく、
  響くのはいつもと変わらぬテンポで刻を刻む針の音だけ。
  何か音楽でもかけた方が気が紛れるかと思ったが、耳煩わしいだけだったのでさっさと消してしまった。




  チッ、チッ、チッ、チッ。



  日常を忙しなく送っているにとって、これだけの時間が降って沸いて出たのは、いつもならば喜ぶべき事だ。
  熱に浮かされたこの頭でなければ、だが。



  チッ、チッ、チッ、チッ。


  ふわふわと、思考と空間が混ざり、溶け合うような感覚。
  何も出来ない体で、心と頭だけが針の音に感応するように勝手に動き出す。



  蛭魔。


  不意に浮かんだ男の名前に、はどきり、と心音を鳴らす。


  
  突然浮かんだその男の名に、その心音に刺激されたかのように、の思考は
  の記憶に存在する情報を晒し出す。
  揺れる金髪。細い指。神経質に尖った耳。その先に当たり前のように収まる耳輪。
  鋭い、全てを射抜こうとするかのように見透かすその視線。
  いつでもどこか冷静さを湛えているその瞳が、熱を帯びたそれへと質を変える瞬間。

  その乱暴な仕草も、物言いも、面倒くさそうに自分の問いかけへうつ相槌も、全て、全て――――


  チッ、チッ、チッ、チッ。


 「あぁ、もう、煩いっ!」


  止まらない思考の螺旋に、思わず声を荒げて起き上がる。
  枕元に置いてあった小さめのクッションを掴むと、少し離れたローテーブルの上に置かれた
  シンプルな目覚まし時計へと向かって投げつけ――――

 「ほぉー?」

  声は、思わぬ所から降ってきた。

  響くだろうと思われた、目覚まし時計が床へと落ち衝突する衝撃音ではなく、
  聞き覚えのある、少し掠れた、でも心地好い低音が。

 「え、ひ、蛭魔君…っ?!」

  そこには、時計めがけて投げつけた筈のクッションを器用に片手で掴み、
  の自室のドアを開けて1歩程踏み込んだ場所に立つ蛭魔の姿があった。

  なぜ、彼がここに。
  一体、いつから?
  いや、そもそもどうやって家の中へと入ったのだ。
  次々と沸きあがる疑問に頭と口が付いていかず、ただぱくぱくと空気を取り込むのみ。

 「我がクラスの誇る委員長様は、見舞いにきた人間に対して『煩い』と怒鳴りつけ、
  あまつさえ手当たり次第に物を投げつけて追い返す、と」
 「何見覚えのある手帳出してるのよ!しかも微妙に脚色するなっ!」

  ケッケッケ、と笑いながら、それでもペンを握る手は止めない蛭魔に、
  脱力したように再び寝台へと倒れこんだ。

  しかし、本当にどうしてここに、彼が?

 「何で貴方がここにいるのよ」
 「さぁーな」
 「そもそも、どうやって家に入ったわけ?鍵はしっかりかけておいたけど」
 「そんくらい朝飯前だ」

  ますます錆びた鐘を中から鳴らしたような頭痛が増す中、は自然と寄る眉間に
  手を添えながら、頭を整理しようと試みる。

  自分は今朝、不覚にも熱を出し、学校は休んだ。
  学校の連絡先を調べるのも億劫で、風邪で休むなどの連絡はいれていない。
  クラスメイトの咲からはを心配してか、携帯へメールが来ていたような気はするが、
  文字を読むことすら気力と体力が足りず、差出人だけ確認して携帯ごと投げ出してしまった。

  要するに、今日自分が学校を休んでいた理由は、誰にも伝わっていないはずなのだ。

 「どうして今日私が家にいるって分かったの」

  そうだ。学校を休んでいるとはいえ、もしかしたらただの用事で家を空けているだけかもしれないではないか。
  現に両親は昨日から旅行へ出かけている訳で。それに付いていって学校を休んでいたとしても、
  理由の1つとしては十分に考えられる。その可能性に、蛭魔が気付かない訳もないだろう。
  それでも、こうやって家まで訪ねてきた彼に、純粋に疑問の念を抱き、は問いかけた。

  沈黙。
  答えを促すように、はただじっと蛭魔の動向を見詰める。

  蛭魔は、少し怒ったように口元を歪め、鋭い視線を浴びせながら答えた。

 「旅行だ何だで前もって休むのがわかってんなら、お前が何の連絡もなしに休むわけがねぇ」

  そういうとこは、変にきっちりしてやがるからな、糞委員長様は。
  言い捨てながら僅かに視線を逸らす蛭魔。
  仕草の意味が分かるようになってきた今だからこそ見える、彼の本心。
  その様子が妙に幼い様に見え、は思わず小さく声を漏らし笑った。

 「あ?なんだよ」
 「いーえ、何でもない」

  だって、なんだか拗ねているように見えたから。
  そんな事を口にしよう物なら、烈火の如く怒ってマシンガンを持ち出すに違いない。
  は出かけた言葉を飲み込み、座って、とローテーブルの脇に置かれたラグを指差した。
  蛭魔も瞬間そのラグに目をやり止まったが、黙ってそれに従う。

 「で、どうなんだ」
 「何が?」
 「おめぇがそこでくたばってる理由だよ。風邪か?」
 「くたばってるとは何よ。好き好んでこんなトコに寝てるわけじゃないわ」

  身体はだるくても、口はつい蛭魔との掛け合いを楽しむかのように勝手に言葉を紡いで行く。
  はそう答えながら、先刻使った体温計をそのまま蛭魔へと軽く投げてよこした。

 「38.7度。完全に風邪だな」
 「そうみたいね」

  小さく溜息を付き、次の蛭魔の言葉を待つ。

  『熱出して寝込むなんて、自己管理が出来てない証拠だな』、か。
  いや、それともこの状況を利用して、また脅迫手帳のネタを仕込むつもりなのかもしれない。

  ああでもない、いやこうでもない、と一頻りが蛭魔シュミレーションを繰り返していた矢先、
  目の前の男から漏れた言葉は、全く予想もしてない答えだった。

 「台所借りるぞ」
 「え?」

  の答えも待たず、蛭魔はさっと立ち上がると、そのまま踵を返して扉を開け出て行く。

 「ちょ、ちょっと待ってよ…っ」
 「言っとくが」

  慌てて寝台から身体を起こし、彼を追いかけようとしたの前に、
  扉からひょいっと顔だけを出した蛭魔が釘を刺すかのように指差しながら言った。

 「俺が戻ってくるまでそこから動いたらブッコロス」
 「ブッコロスって、何よそれ!」

  いいな、と言い残し、さっさと階段を降りて行く男の足音だけが、の部屋にまで響いた。




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  数刻後、何やら階下から漂ってきた匂いに、はふと視線を手元の本から上げる。

  先ほどベッドから降りるなと釘を刺され、別に従う義理もないのだが、いつもと少し様子の違う蛭魔に
  惑わされたのか、なんとなく言いつけを守ってベッドで読みかけの本に熱中していた所だった。

  不思議に思っていると束の間、ドアが開き、そこには蛭魔の姿。

 「ちょっと、何だったのよもう」
 「おらよ」

  の問いには答えず、短い言葉と共に自分に向かって差し出されたそれに、は思わず言葉を失った。

  一人用の、小さな土鍋。
  その淵からは湯気が吹き出し、ほんわりと米の炊ける独特の匂いがしていた。

 「これって、もしかして…」

  の言葉に応えるように、蛭魔がローテーブルに置いた土鍋の蓋を開けて見せる。
  途端勢いよく上がる湯気の向こうには、いい具合に緩く仕上がった粥と、その上には柔らかく広がった卵。
  …ご丁寧に鍋敷きまで敷かれ、彼の手には母や自分がいつも使っているミトンが、違和感を生じさせつつも
  すっぽりと嵌まっていた。

 「ありがたく食えよ。残したりしたら即死刑」

  仏頂面のまま、視線で促す蛭魔の様子を、はぽかんと口を開けたまま凝視してしまった。
  あの蛭魔が。
  見舞いに来ただけじゃなく、自分にお粥まで作ってくれる?

 「貴方、偽者?」
 「はぁ?!」

  が思わず放った言葉に、蛭魔はまるでどこかの3兄弟のような声を上げた。

 「だって、私の想像の中に「お粥作ってくれる蛭魔君」なんて、存在し得ない」
 「お前なぁ…」

  大きな溜息と、次の瞬間の怒気。
  蛭魔はどこから用意したのか、機銃を構えながら怒鳴った。

 「いいから黙って食え!」
 「はいはい」

  サイドボードへ掛けておいた上着を羽織り、ローテーブルの手前のラグへと腰を降ろす。

 「おいし」
 「…そうかよ」
 「うん。卵、好きだから。でも…」

  はそこまで言って、ちらりと蛭魔へ視線を遣る。
  テーブルに肘をついて、が粥を口へ運ぶのを見詰める蛭魔。 

 「意外だった。料理も出来るなんて」
 「一人暮らしだからな」
 「そうね、寂しい寂しい男の一人暮らしね」
 「…おい」

  ジャキッ、と再び構えられる機銃は無視して、は目の前の粥へ舌鼓を打った。
  蛭魔の意外な特技を目の当たりにして、自然と素直な感想が漏れる。

 「本当に、蛭魔君は何でも出来る人なのね」

  別に、深く考えて発した言葉ではなかった。
  反応がない事に気付いて、は食事へと注がれていた視線をふと上げる。

 「別に、何でも出来る訳じゃねぇよ、俺は」

  そこには、妙に神妙な面持ちでそう応える蛭魔がいた。
  その沈黙に何が潜んでいるのか。それを汲み取る事が出来ず、は首を傾げる。

 「そう?」
 「ああ」

  それ以上話す気がないのか、再び口を閉じてしまった彼に、は諦めたように
  粥を消化する作業へと戻った。

  幾許かの時間が流れた頃、すっかり空になった鍋を見て、蛭魔が口元を吊り上げ笑う。

 「しっかり食欲だけはあるんだな」
 「病気のときはまず食べなきゃでしょ」
 「太るぞ」
 「ほっといてっ」
 「最近、1年以上守り通してたベスト体重に変化。プラス…」
 「それ以上言ったらぶっ殺すっ」

  どこから仕入れてきたのか、最近のの悩みの一つを持ち出され、思わず勢いよく立ち上がる。

  その、瞬間。


  天井が床になって。


  床が天井になって。



  視界は真っ白で、
  




  真っ黒で、







  いや、チカチカと明暗に点滅して…?













 「おいっ?!っ?!」

  次に視界が元通りの色と均衡を取り戻した時には、は誰かの腕に支えられて横たわっていた。

 「え、あ…?」

  どうやら風邪の熱に加えて、急に立ち上がった所為で立ち眩みを起こしたらしい。
  ゆっくり辺りを見回せば、未だ霞んだフィルターの向こうには見慣れた自分の部屋。
  あぁそうだ、私は風邪を引いて、熱を出して寝込んで、それで――――

 「無茶すんな、この糞馬鹿」

  声の主は、男。
  金の輪郭が、優しくて、でも怒気を含んだ声で、そう自分に呼びかけているのは分かった。
  あぁ、これは、この人は私を心配してくれている。
  うまく回らない頭を呪いながら、声の主の名前を探る。

  そうだ、ひる、ま。

  でも、あぁ、いま、わたしのなまえをよんだ?ひるま。

 「ひる、ま…ぁ」
 「いいから寝てろ」

  蛭魔。
  声の主の名前。
  時計の針の音。
  思考を支配し、廻り廻る存在。

  ふわり、と自分を支えていたものが、力強いものから柔らかく包み込むような物へと変わる。
  そこが自分の寝台だと気付いた時には、は再び目を閉じ、静かに寝息を立てていた。

  その様子を息を止める様に見詰めていた男は、の立てた寝息を確認すると
  大きくその止めた息を吐き出した。

 「世話かけさせやがって、この糞女」

  寝台へゆっくりと腰掛け、腕組みをしながら少女を見下ろす。
  先ほどの苦しそうな様子とはうってかわって、安心したようにただ眠るに、蛭魔は先ほどの
  の言葉を思い出し、再び苦い表情を浮かべた。

  本当に、何でも出来るのね。

 「…出来ねーよ」

  くしゃ、といつもの乱暴な挙動からは思いも付かないほど繊細に、の髪を梳きながら呟く。

 「そんな簡単に、出来るかよ」

  先刻は、咄嗟に呼んでしまった、名前。
  苗字でも、普段呼び付けている「糞委員長」でもなく、彼女の名前。
  それを呼び捨てにするには。
  自分の特権にするには。


  その方法は唯一つで、誰の前にも平等にその権利は存在するけれど。


  でも。


 「どうして来たかだって?この糞

  そのくらい、分かりやがれってんだ。
  蛭魔は穏やかに眠る少女に、先程までとは似付かない程、焼付く様な鋭い視線を投げつけた。





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  夢見る少女は、何も知らない。

  ただただ、優しい夢の中でだけ、その名前を呼ぶ声を記憶するだろう。

  現実と虚構の境の中で、少年がその名と心を、少女がその声と腕を手に入れるのは何時の事か。

  それを綴るのは、また別のお話。





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  >>>E c l i p s e